boyaki

一介のオタクが感傷に浸る為のblog

桃源郷には成らなかった

 

いくら冬の苦手なわたしも、よく晴れた日の清涼感は好ましく思う。

 

窓を開けたら入り込むおひさまの光や風に、ああ今日は「寒い」のではなく「涼しい」のだなと感じた。

最近は寒さに震えることが多かったから、凍えずにいられる朝に嬉しくなりコンビニまで散歩をした。

 

わたしは大人なので肉まんとあんまんを両方買うことができる。子供の頃に憧れていた交互に食べるやつをやるんだ! そう思いながらふたつの温もりを抱えつつ歩いていると、とんでもなく背の高い花と遭遇した。

びっくりして立ち止まったものだが、たしか去年もこの道でこの花と邂逅を果たしている。

記憶から引き出してまず、夢じゃなかったんだ、と思った。

 

夢見心地の記録はこちらに綴られている。

とにかく去年のわたしはその花の異質さと美しさに驚き、見惚れ、その幻想的な感覚をたいせつにしたいあまりその道を通るのをやめていた。

 

ただ、はっきりとした思考で観測してしまえば、それはもう"現実"になってしまう。

わたしは大人なので手元にあるタブレットで花の名称を調べることができる。

11月のガーデニングにオススメの花で検索をかけたら、それはすぐにヒットした。皇帝ダリア。なるほどその名を冠するに相応しいと思った。それほどの存在感だった。

けれどもう桃源郷にはできなかった。蝶は飛んでいない。

 

現実を生きようと、そう云われた心地でいる。

 

ほんとはずっと泣きたくなかった

8/7の日記を見て改めて思ったことは、なんだか疲れてるなということだった。事実疲れていた。過去の日記はSAN直葬トリガーだって相場が決まっているでしょう。

 

馬鹿なことをしたなと思ってはいるけれど、やはり後悔できないのは、それによって自己理解が深まり主軸がブレにくくなったからだ。

依然として1日の間に躁と鬱を行き来しているような人間だけれども、そんな些細な軸のはなしではない。もっと根本的な生き方である。

あのあと何日にも渡って脳がヒートしつづけ、食事も困難になり、体重が激減し、夢を覚えるようになった故に悪夢を記憶したまま起きるという、なんというかあまりよい状態ではなくなったけれど、それを差し引いてでも主軸があるというのは心強くて良いことだと思った。今は食事はとれるようになりました。体重戻し中です。

 

で、まあ話を冒頭に戻すのだけれども、当時のわたしはまあ泣いていた。子供みたいに鳴咽をあげて泣きじゃくっていた。一人で。

それがたぶん気持ちよかったんでしょうね。人前で弱音を晒すことも、一人で静かに泣くこともあったけれど、わたしはそれをタブー視していたので、人前で散々弱音を吐いてわんわん泣いていたのがたぶん気持ちよくて、そんな自分をどうにかこうにか肯定したかったのだと思う。

 

今見るとやめてくれって感じですね。

 

当時のわたしも本当はやめてほしかったんだと思いますね。後半の記述がそう物語っているから。

強くなりたくて幸せになりたくてでも泣きたかった。

わかるよ。

でも人前で泣きたくないから創作に縋りたい。

すごく、わかるよ。

 

不思議なことに、そう、思ったはずなのだけど、今は結構人前で泣いている。比喩です。人とお話して人に頼るのがそこまで精神的負担では無くなってきているんですね。甘えるのが、すこし上手になりました。

 

創作で地獄のような話を書いて発散してしまおうかと思っていたんだけども、もうその必要は無さそうだなと思っている。

なんにせよ、たびたび言ってるけれども、わたしはみんなにも幸せになってほしいんですね。そしてわたしは自分の作品の見え方や伝播の仕方をある程度自覚してるんですね。たぶん、人の心をべこべこに折る漫画を描いたら、たぶんそういうのが苦手なひとも注意書きをスルーして読んでものすごくショックを受けるんだろうなって知ってるんですね。これは過去にもあったから今後もあるだろうなというのが根拠の理由です。

ハッピーエンドを模索していた代償だな。

 

けれどハッピーエンドを模索しつづけていた恩恵も確かにあるんですよ。おかげでわたしはポジティブ変換が年々得意になってきました。

 

やっぱり、もう人前では泣きたくないですね。そういうのはわたしと、わたしを知ってるほんの数人が知っていればいいんですね。

 

強くて楽しくてhappyなわたしを見せていきたいなと思いました。決意改めです。おしまい

たぶんずっと泣きたかった

わたしは泣きたい人だったんだ、と気がついて、自分でも笑っちゃえるくらい認められた心地になった。

 

ずっと強い人に憧れてるんだと思ってた。

幸せになりたいんだと思ってた。

それなのに心が強いねと言われれば否定された気分になって、そんなことないと自分の弱さをあげつらって。

こんなに幸せでいいのか……と強く感じたときに、これが最高潮かもしれない、こわい、いま死にたいって思ってしまって。そんなこと言っちゃダメだ、そんなこと思っちゃダメだ、と自分に言い聞かせていたら、なんでそんなふうに否定されなきゃいけないんだろうって泣き出しはじめた。あんな天気のいい日に。セミがわんわん鳴いてたっていうのに。

 

ほんとうは弱いままでいたかったんじゃないか、幸せになりたいとは思っていないんじゃないか。

そうだったとしたら、昔から幸せになる方法を模索していたわたしは何だったんだろう。

どうせ生きるならハッピーに生きたいと宣って、いろいろトライアンドエラーを繰り返してきた、そんなわたしの人生って何だったんだろう。

その過程で傷つけたひとも傷つけられたひともいた、どうしようもなかった、あの日々はなんだったんだろう、なんて。

 

 

 

そんな折に思い出したのが、心に残ってる物語たちのことだった。

 

みんながみんなの正しさの選んで、結果的に報われないお話が、何年経ってもわたしの中で息づいている。

登場人物のみんなが愛おしくて、どうして幸せになれなかったんだろう、どうしたらよかったんだろうなんて、フィクションだとわかっていてさえ親身に考えてしまう、そういう物語に惹かれていた。

救われない物語に救われていた。

きっとずっと、悩みたかったし後悔したかったし嘆きたかった。泣きたかった。その感傷を単純に許されたかった。

そう思ったら、ストンと心に落ちてきて、なあんだそうだったんだって一気に力が抜けちゃった。ちょっと笑った。

 

わたしはやっぱり強い人に憧れているし、たぶん強い人になってきてる。

幸せになりたいんだと思っていたし、幸せに生きてる。

その上で、泣くことも悩むこともそのまんま肯定されたかったんだね。

 

ただその肯定が難しいってことを、わたしはよく知ってる。

卑屈になったり泣いてしまえば、呆れられたり怒られたり傷つかれたり諭されたりして、わたしはそれでもっと鬱屈して、お互いにイヤな思い出になってしまうということが多々あった。けれど親しみを感じている相手がおなじように塞ぎ込んでいたら、なんとかして力になりたいと心が動いてしまうってことも自覚している。

否定を肯定するのはしんどさが伴なうんだってことを、もう、いやってくらい知ってる。

 

だから、創作なんだって思った。

 

 

 

創作趣味と心中したいって、口癖のように言ってた。

創作物ならどれだけ好意を向けても、縋っても期待しても、分析の真似事をしても、対象がこっちを認識しないから嫌がられないし迷惑がかからない。それがものすごく安心材料になるんだってこともたびたび主張してた。

泣いて嘆いても問題ないのが創作なんだって気がついたら、今まで言っていたバラバラの主張がきれいに繋がった気がして、あーなるほどね、完全に理解した、だなんてフムフム言い始めたので記録に残しておこうと思いました。

 

わたしはね、やっぱり幸せになりたいし、みんなにも幸せになってほしいんだよ。そんでわたしのことを好きだと思ってくれる人がいることももうちゃんと知ってるから、たぶん言ったら傷ついちゃうんだろうなっていうのが分かるネガティブさをあんまり見せたくないんだな。

それならわたしの感傷を誰が受け止めてくれるのかっていうと、昔からずっと創作が、創作趣味が、何も言わずに付き合ってくれてたんだよね。

 

そういうわけでわたしは、救いのない物語をかいてわたしに寄り添ってあげたいなって思ったので、ハッピーエンドの合間合間にすべりこませていこうと思う。ハッピーエンドはこれからも描くよ。だってしあわせ研究家だもん。自称ね。わたしは昔から今まで幾多のハッピーエンドを描きながら、やっぱり今でも何がハッピーエンドなのかって分からなくて、分からないから分かりたくて、分からないも分かりたいも受け止めてくれる創作趣味とずっと一緒に生きていたいと思ったんだよ。

そう思ったから、ネットの隅っこで決意表明しておきます。

 

散歩

熱を出した。といっても、3ヶ月前の話である。医者の診断によるとインフルエンザであった。そもそも熱すら滅多に上がらないわたしは当然狼狽して、こんなの子供のとき以来ではないかと思ったものだった。

勝手が分からないながらも休養をとり順長に回復していったわたしは、せっかくだからだの何だの言って、その感覚をつぶさに覚えておこうと決めていた。そうして記録を取っている。これはただの性である。

 

閑話休題。熱も落ちついて外出できるようになった頃、のんびりと歩いてコンビニに向かった。ずっとゼリーや病人食のようなものを食べていたわたしは、そろそろ普通の食事がしたいと思ったのだ。

ひとりで引きこもり人と会話をしなかったせいだろうか、外に出なかったせいだろうか。いつも歩いていた道がなんだか不思議な景色に見えていた。馴染み深いようでいて、どこか違うような。──後から考えてみれば、その頃ずっとバタバタしていたのだから気づかないうちに景色が変わるのも当然なのだけれど、当時のわたしは熱の後遺症なんじゃないかと本気で思っていた。

慣れ親しんだ道をきょろきょろとしながら、些細を観察して歩く。道の感じだとか、他所様の庭だとか、空の色だとか。とりわけ植物というのは分かり易い。知らない草花がたくさんあるなとぼんやり思っていたところで、わたしはそれに出くわした。

ずいぶんと背の高い花だった。

花、だったと思う。既に記憶が朧げになっていて花の形状も色さえも思い出せないのだが、どうにも異質な植物だった。二階建ての庭に植えられていたそれが、屋根に届くのではないかというくらいに伸びていて。先のほうにいくつかの花が密集して咲き誇り、風でゆらゆらと揺れていた。冬に差し掛かる季節だというのに春を感じさせるようなそれは目を惹いて、うっかり立ち尽くしてしまったものだ。そのうちひらひらと蝶が舞いはじめ、こんな、今、肌寒いというくらいなのに、などと困惑したことを覚えている。

 

たぶん詳しいひとからしたら、この特徴だけで何であるのか分かるんだろうな、と思う。けれどわたしは聞いていないし、調べてもいない。

あの瞬間、桃源郷みたいだ、などと思ってしまった記憶を。そのまま桃源郷にしてしまいたかったのだ。