たぶんずっと泣きたかった
わたしは泣きたい人だったんだ、と気がついて、自分でも笑っちゃえるくらい認められた心地になった。
ずっと強い人に憧れてるんだと思ってた。
幸せになりたいんだと思ってた。
それなのに心が強いねと言われれば否定された気分になって、そんなことないと自分の弱さをあげつらって。
こんなに幸せでいいのか……と強く感じたときに、これが最高潮かもしれない、こわい、いま死にたいって思ってしまって。そんなこと言っちゃダメだ、そんなこと思っちゃダメだ、と自分に言い聞かせていたら、なんでそんなふうに否定されなきゃいけないんだろうって泣き出しはじめた。あんな天気のいい日に。セミがわんわん鳴いてたっていうのに。
ほんとうは弱いままでいたかったんじゃないか、幸せになりたいとは思っていないんじゃないか。
そうだったとしたら、昔から幸せになる方法を模索していたわたしは何だったんだろう。
どうせ生きるならハッピーに生きたいと宣って、いろいろトライアンドエラーを繰り返してきた、そんなわたしの人生って何だったんだろう。
その過程で傷つけたひとも傷つけられたひともいた、どうしようもなかった、あの日々はなんだったんだろう、なんて。
そんな折に思い出したのが、心に残ってる物語たちのことだった。
みんながみんなの正しさの選んで、結果的に報われないお話が、何年経ってもわたしの中で息づいている。
登場人物のみんなが愛おしくて、どうして幸せになれなかったんだろう、どうしたらよかったんだろうなんて、フィクションだとわかっていてさえ親身に考えてしまう、そういう物語に惹かれていた。
救われない物語に救われていた。
きっとずっと、悩みたかったし後悔したかったし嘆きたかった。泣きたかった。その感傷を単純に許されたかった。
そう思ったら、ストンと心に落ちてきて、なあんだそうだったんだって一気に力が抜けちゃった。ちょっと笑った。
わたしはやっぱり強い人に憧れているし、たぶん強い人になってきてる。
幸せになりたいんだと思っていたし、幸せに生きてる。
その上で、泣くことも悩むこともそのまんま肯定されたかったんだね。
ただその肯定が難しいってことを、わたしはよく知ってる。
卑屈になったり泣いてしまえば、呆れられたり怒られたり傷つかれたり諭されたりして、わたしはそれでもっと鬱屈して、お互いにイヤな思い出になってしまうということが多々あった。けれど親しみを感じている相手がおなじように塞ぎ込んでいたら、なんとかして力になりたいと心が動いてしまうってことも自覚している。
否定を肯定するのはしんどさが伴なうんだってことを、もう、いやってくらい知ってる。
だから、創作なんだって思った。
創作趣味と心中したいって、口癖のように言ってた。
創作物ならどれだけ好意を向けても、縋っても期待しても、分析の真似事をしても、対象がこっちを認識しないから嫌がられないし迷惑がかからない。それがものすごく安心材料になるんだってこともたびたび主張してた。
泣いて嘆いても問題ないのが創作なんだって気がついたら、今まで言っていたバラバラの主張がきれいに繋がった気がして、あーなるほどね、完全に理解した、だなんてフムフム言い始めたので記録に残しておこうと思いました。
わたしはね、やっぱり幸せになりたいし、みんなにも幸せになってほしいんだよ。そんでわたしのことを好きだと思ってくれる人がいることももうちゃんと知ってるから、たぶん言ったら傷ついちゃうんだろうなっていうのが分かるネガティブさをあんまり見せたくないんだな。
それならわたしの感傷を誰が受け止めてくれるのかっていうと、昔からずっと創作が、創作趣味が、何も言わずに付き合ってくれてたんだよね。
そういうわけでわたしは、救いのない物語をかいてわたしに寄り添ってあげたいなって思ったので、ハッピーエンドの合間合間にすべりこませていこうと思う。ハッピーエンドはこれからも描くよ。だってしあわせ研究家だもん。自称ね。わたしは昔から今まで幾多のハッピーエンドを描きながら、やっぱり今でも何がハッピーエンドなのかって分からなくて、分からないから分かりたくて、分からないも分かりたいも受け止めてくれる創作趣味とずっと一緒に生きていたいと思ったんだよ。
そう思ったから、ネットの隅っこで決意表明しておきます。