boyaki

一介のオタクが感傷に浸る為のblog

ただの錯覚

好きな人のエッセイは、すこしずつ読むことにしよう。そう閃めいたとき名案だと思った。むしろなぜ、その人がすこしずつ書き溜めていったものを一気に摂取しようだなんて思ったのだろう。こういうのは、少しずつ読んで、その内容ひとつひとつに想いを馳せ、思考を巡らせて過ごすべきなのだ。そう思った。

ほんとうにそう思ったのだけど、よくなかった。

 

なんというか、ハイカロリーエッセイだったのだ。丁寧に掬い取っていくには、あまりに心に刺さりすぎた。現にふたつの話だけ読んで買物に出たわたしは、その内容に向けて悶々と考え込むはめになり、結果的にぐったりしてしまった。

どうせぐったりするのなら、いっそ一度に全部読み切ってしまって、たくさんの感情が洪水のように流れていくさまを体感して、ひとつひとつに目もくれず、ただ巨大な嵐が過ぎ去ったなとボーっとするほうがよかった。

 

 

至極共感できる内容が書かれていると、なんだかそれだけで好きになってしまう。心をあずけてしまう。しかしその次のページでは、わたしの大事なものが他愛もないことであると書かれるのだ。剥き身であずけてしまった心は、当然傷ついてしまう。

それなのにまた次のページでは寄り添ってくる。こんなのひどいと思った。

傷ついては救われるのを繰り返すのなら、一気に摂取して、ああなんかすごく心がめちゃくちゃになってしまったなと思う方がいい。丁寧に読むほど感情の起伏が激しくなるというのなら、激しくならないようにしたい。

 

 

本を読むことは対話だと思う。

よく言われることだけれども、本当にそう思う。

とりわけエッセイなどの、等身大の言葉で、それも口語の文体で書かれたものだと、もうすっかり語り明かした心地になる。ただの一読者でしかないというのに。

しかし一方通行だと分かっていても、会話した気分になってしまうのだ。

ツイッターだってそうだ。いろんなひとがいろんなことについてツイートするさまを見るだけで、集団の中に紛れ込んでいる心地になる。しかもこのツールはリアルタイムで更新されるのだから思い込みも生まれやすい。

わたしがツイッターでたくさん呟いてしまうのも、たぶんそれのせいだと思う。誰にというわけでもなく聞いて欲しいのだ。反応がなくたって、ぽつりと呟くだけで誰かに聞いてもらった感覚を抱く。このブログだって、読者などいないにも等しいのに、それでもなぜか話を聞いてもらっているような気がしている。己との対話でしかないのに。それをアナログのノートに記してしまい込むか、電子ツールで書いて公開するか、それだけの差なのに。そうして自己と他の境界線が曖昧になっていく。

ただそれは錯覚でしかなく、好きな作家はわたしに向けて書いてなんかいないし、好きな歌手もわたしに向けて歌っちゃいない。フォロワーのツイートだって、わたしの話なんかしていない。そしてわたしも、べつに誰に向けて書いているわけじゃない。

ただの錯覚でしかないと自覚しておかなければ、トラブルだって起きる。

今日もインターネットのどこかでまた、境界線の曖昧なひとたちが何かを燃やしている。