大人になるということ
大人になるってどういうことだろう。考えてはみるものの、明確な答えが出たことはない。きっとその時々の正解があるだけで、本質的な答えというのは存在しないのかもしれない。
いくつもの結論が生まれた中で、本日の答えは「コミュニケーションの限界を知ること」で、それについて話します。(ほかにお気に入りの答えとして「過去と現在に思い馳せること」があるのだけれど、それはまたの機会に語りたい)
思いやりとは、気遣いとは、善意とは、一体なんなのだろうか?という話にも通ずるのだけれど、これらに対個人への正解はあっても、不特定多数に対する正解なんてものはない。はっきりと断言するけれども、絶対に無い。
あると思っている人と親しくできるとは思えない。だってその人の正解からズレただけでわたしはその人にとっての悪者になってしまう。悪者になんてなりたくない。それに怯えて生きていたくはない。
だからわたしは価値観の多様性を知っているひとと、ぬるま湯のような世界で過ごしたいのだ。ここでのわたしは善人にもならないけれど、悪人にだってならない。わたしはわたしで、それ以上でもそれ以下でもない。
“せめて人を不快にしたくないから、マイナスの発言は控えている”
いつだったか、どこかでそんな意見を目にして以来、ずっと引っかかっていることがあった。
マイナスの発言さえしなければ、他人を不快にしないものなのだろうか?
わたしはとても、そんなことは思えない。
悪意だとかネガティブな発言だとかは、人を傷つける可能性が高いのは事実だ。けれど怒りの代弁であったり、哀しみの親和であったり、寄り添ってもらえた心地になることだってある。
逆にポジティブな意見で傷つくことだってあるはずだ。
哀しくて寂しくてたまらない夜に、楽しそうにしている人たちを見て泣いた夜がある。みんなは無いのかな。どうしても楽しめない対象が称賛されている様を眺めながら、圧倒的な疎外感に打ち拉がれたことは?あなたの為と称された言動が、ざっくりと心に刺さった経験は?
それらに傷ついてしまうことは悪いことなのだろうか。
善意を喜べないのはいけないことなのだろうか。
楽しむ姿を見てほの暗い気持ちを抱くほうがおかしいのだろうか。
そんなことはないはずだ。
ポジティブな何かを見て傷ついてしまうことって、めずらしいことじゃない。悪いことじゃない。なにかを見てなにかを思うことのすべては、自由であって然るべきだ。
つまり、わたしも誰かを傷つける可能性は十二分にある。発信をするというのはそういうことだった。絶対にひとを傷つけない言動なんてない。プラスの発言だって、誰かのなにかの柔らかいところを刺してしまうことがあるってことを、忘れずにいたい。
その自覚をもちながら、それでもわたしは楽しい話をしていけたらと思っている。
楽しい話をしたいのは他人を慮っているのではなく、ただ、わたしがそんなわたしを見ていたい。それだけのことだ。けれど、それで一緒に楽しくなってくれるひとがいたら、嬉しい。
善悪って、単純なものじゃない。立場や視点が変われば、簡単にひっくり返ってしまう。
だから万人に共通した正解というのはなくて、いくら寄り添おうとしたところで、すれ違ってしまうことはままある。相互理解を深めようとしたって、何もかもを理解し合うというのは不可能なのだ。それが、冒頭に述べた「コミュニケーションの限界を知ること」だ。
どれだけ誠心誠意を尽くしたところで、言葉を交わし合ったところで、それでも相入れない部分は存在するのだということを。それは個人と個人であるからして仕方ないことなのだと。どうしようもないのだと。その哀しさを、切なさを、いくつも経験して。そういうものなのだろうと諦めを受け入れたとき、わたしたちは大人になるのだと思う。それが、大人になるということだと思う。
そうした諦念を抱えても尚、心を触れあわせたいと思うことを、きっとしあわせと呼ぶんだろうな。
ところで明日は推しの誕生日です。
いま高校生の彼は、どんな交友をして、どんな経験を経て、どんな大人になるんだろうな。ハッピーバースデー。いくつになったって、明るい笑顔でみんなを元気にしてくれるんだろうなって思ってるよ。