boyaki

一介のオタクが感傷に浸る為のblog

わたしよわたし

ひさびさに、動悸息切れ目眩のするくらい、長湯をした。

風呂から出たわたしは頭がクラクラしていて、ドアを開けて浸かっていたにもかかわらず酸欠ですらあるようで、とりあえずソファに倒れ休んでいた。なんの為の風呂だったのだろう。リラックスする為ではなかったのだろうか。

 

気持ちを整理する為の長風呂だった。

ただただ思考の世界に耽るまでに、自分のこころに問いかけるまでに、それなりの時間が必要だったらしい。

めまぐるしく過ぎる刻に身を任せると、自分への問いかけがヘタになってしまうのだ。自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、そういう欲求を上手に引き出してあげられなくなる。その時々の要望を叶えてやったところで、それは二転三転するものであるから、いっそう感情が迷子になるのだ。もっとその先の、根本的なところのはなしを聞いてあげなければならない。

わたしよわたし、わたしは一体なにをお望みかい。

 

 

 

***

 

助長になってしまうけれど、順を追って書き出していこうと思う。

 

まず最初に憤りが湧いた。ここ1〜2ヶ月間で起きたさまざまなことが頭に浮かんではスライドしていった。あれもこれも、ああ、イヤだったのか、と、理解できた。理屈なんかじゃなくて、単純にイヤだったんだなと。

ここ最近で生活が大きく変わった。11月末に仕事を辞めた。それで落ち着くと思いきや、12月の後半まで先送りにしていた予定が詰まっていた。それでもってこの2ヶ月は時間の経過を早く感じていたものだ。もう明日にはクリスマス・イブなのだという現実が信じられない。

他人からしたら些細なことかもしれないけれど、わたしにとっては大きなことが、巨大な感情の揺れが、とても書き起こせないほどたくさんあったようだった。頭の中であれこれと列挙されていって、ようやく、気持ちのほうも忙しなかったのだなと気がついたのだ。

 

その後に襲ってくるのは自己嫌悪だった。かなしみだった。被害妄想だった。

わたしの中に湧きあがるイヤな気持ちを認識して、そんなこと思う自分への嫌悪と、そんな思考になってしまう性質へのかなしみと、きっとこんなんじゃ誰もがわたしを煩わしく思うはずだなんていう謎の確信だった。

 

それらを経て、自分が今なにをやりたいのか、なにをやりたくないのか。ようやく問いかけたときに出てきた答えが「ひとりになりたい」だった。

誰かとコンタクトのとれるツールを全部オフにして、すべてを遮断して、ひとりで、のんびり過ごしたい。と、そう思った。

 

そう思って、それらの生活をひとしきり夢想した。のんびり好きな本を読んで、好きなものを描いて、ぼーっと過ごして。けれど好きなものを読んだらツイートしたくなり、思うように絵が描けたら投稿したくなるわたしのことが、簡単に想像できてしまった。きっとそうに決まっていた。

 

穏やかに過ごしたいのだと思った。

それだけだった。

 

ひとりになりたいんじゃない。穏やかに過ごすために、イヤなことに触れたくなかったのだ。そんな単純なことに気づくまで随分長風呂をして、そうしてのぼせてしまったのだ。

哀しいかな、わたしはかなり、やさぐれていたらしかった。

 

 

 

***

 

ところで、己の欲求を知ることが案外難しいのと同じく、己の感情を認識することも案外に技術がいる。

自己と他の境界線があやふやになってしまうことというのは、めずらしい話ではない、と思っている。

わたしはわたしの感情を大切にしたいという強い意志を持っているけれど、それでも迷子になることは多々あって、そしてやっぱり、感情の置き場に迷っているひとたちのことも、多々目撃してしまう。

 

思うに、そこには欲求があるのだと思う。

 

好きな人が言っていることを、肯定したい欲求。

嫌いな人が言っていることを、否定したい欲求。

 

同調しなければならないという義務意識も、反発しなければならないという意固地も、あるわけではないのだ。

だって、盲信したくないと思っていてすら、好きな人が好きだと言っていることに共感できなければ悲しく、嫌いだと言っていることを嫌いに思えなくても悲しい。

まるごとを嫌悪したくなくても、嫌いな人の言ってることに共感してしまったら悔しくなるし、他愛のないことでさえ否定したくなる。

 

だから、単なる欲求なのだろうなと思った。

そうしたいと思ってしまうから、迷子になってしまうのだ。そして同調というのは心地がいい。ストレートに安心できることだと錯覚してしまう。ひとと感情を共有できるというのは幸せなことで、それはあたたかく包み込んでくれる湯船のようでもあって、ああここに身体を委ねてぼんやり過ごしていたいなと、そう、思ってしまうのだ。

 

けれどそれではのぼせてしまうことも、わたしは知っているから。

 

自分の感情を理解して、自分の指針をつくって、それらを大事にすることが、ひいては他人を大事にすることなのだと。それを愛というのだろうと。

 

 

 

 

愛に生きたいのだと、口癖のように言っている。

 

けれどそれはどういう意味なのだろうかと、具体的になにを示すのだろうかと、自分の台詞だというのに分からなくなることがある。きっとその時々で違ってしまうのかもしれない。

とりあえず、今のわたしのアンサーとしては、自分の感情を大事にすること。そうして他人の感情も尊重すること。それを愛に据えようと思う。

 

であれば迷っていたSNSの方針も決まるというものだ。

 

「大概loveの話をするよ」

そうプロフィールで豪語しているわたしさん、そうであってください。ハピであれ。

ラナンキュラスに想いを馳せる

わたしは今、毎月2回ミニブーケ(もしくは一輪挿し)が届くサービスを利用している。早いもので既に2ヶ月が経とうとしていて、現在窓際を飾っているのは5種類目のものだ。シックな色合いで、独特なかたちをしたもので、かわいい。

どうもわたしは、自覚していた以上に草花が好きなようだった。

あんまり知識もなければ執着もないので、なんとなく好きなのかなくらいだったのだけども、いまの認識は「なんとなくだけれどもめちゃくちゃに好き」にアップデートされた。思い返してみれば花の季節には花見に行き、紅葉の季節には紅葉を愛で、たまに通る銀杏並木道にはかならず見惚れていたのだから、やっぱり前から好きだったのだと思う。

(例として銀杏だけ具体的なのは、たぶんわたしの好きな色がイエローだからだ)(色鮮やかに記憶に残るのは、山吹であったり、向日葵であったり、ミモザであったりする。タンポポや菜の花も好きだ。ちなみに埼玉県営の権現堂公園はソメイヨシノと菜の花の並びがうつくしいので、おススメです)

 

利用しているお花便はFLOWER(https://flowr.is)で、毎回2種類のうちから片方を自分で選ぶことができ、ポストインで届けてくれる。選び忘れてもランダムで届けてくれるようだ。わたしの母にも勧めたところ早々に選び忘れていたが、それでもかわいいブーケが届いたと喜んでいた(スキップ機能もあり、長期の不在にも対応されているからすごい)

安価で手軽でかわいいし、ちょうど忘れたころに届けてくれるのが誰かからのプレゼントみたいで、めちゃくちゃに嬉しい。まさにわたしにとって神アプリで、気がつけばつい宣伝の真似事をしてしまう。中の人ではありません(でも気になったら是非試してみてね。わたしの招待コードはVU3Lです)

このアプリでは注文履歴を見ることができて、そこではお花の写真とかんたんな説明が表示されている。わたしにとって見たことも聞いたこともないものが届くことがあり、それがなんの花であるか調べられるのが、けっこう嬉しい。散歩しながら眺める花は、なんだろうなと思いつつ終わってしまうからだ。

届いたブーケと説明を照らし合わせて、ノートにスケッチを残して、稀にウェブで検索をかけてみたりして、そうして自分のなかに何かが遺っていくような感覚を幸福におもう。

 

 

 

関心を向ける時間が増えると、過去を思い返すことも増える。

名前を覚えることが苦手なわたしが、それでもしっかり覚えていたいと意識して記憶したのが、ラナンキュラスだ。つい今年の春先である。

ツイッターをぼんやり眺めていたときに、視界に入ってきたのがその花だった。あんまりに綺麗だったから、しばらく惚けてしまったのだった。

それをラナンキュラスだと知ったのはツイート主がそう紹介していたからであって、わたしはすぐさま検索をかけた。けれど、その写真のような一輪は見当たらず、しかし品種としては正しくそれであるようで。つまりはその紹介された個体が、そのたった一輪が、その写真のうつくしさが、わたしの心を射止めたということだった。

だから、たぶん、わたしはそのラナンキュラスに出会うことはないのだろうなと思っている。

そんなこと分かっていて、それでも尚いつか出逢うことができたらなんて、その名を期待と供に覚えたのだった。口の中で転がすその音は、なんだか特別な響きがして、心地がいい。

 

わたしは今でも、幻のラナンキュラスに焦がれている。

大人になるということ

 

大人になるってどういうことだろう。考えてはみるものの、明確な答えが出たことはない。きっとその時々の正解があるだけで、本質的な答えというのは存在しないのかもしれない。

 

 

 

いくつもの結論が生まれた中で、本日の答えは「コミュニケーションの限界を知ること」で、それについて話します。(ほかにお気に入りの答えとして「過去と現在に思い馳せること」があるのだけれど、それはまたの機会に語りたい)

 

 

思いやりとは、気遣いとは、善意とは、一体なんなのだろうか?という話にも通ずるのだけれど、これらに対個人への正解はあっても、不特定多数に対する正解なんてものはない。はっきりと断言するけれども、絶対に無い。

あると思っている人と親しくできるとは思えない。だってその人の正解からズレただけでわたしはその人にとっての悪者になってしまう。悪者になんてなりたくない。それに怯えて生きていたくはない。

だからわたしは価値観の多様性を知っているひとと、ぬるま湯のような世界で過ごしたいのだ。ここでのわたしは善人にもならないけれど、悪人にだってならない。わたしはわたしで、それ以上でもそれ以下でもない。

 

 

“せめて人を不快にしたくないから、マイナスの発言は控えている”

いつだったか、どこかでそんな意見を目にして以来、ずっと引っかかっていることがあった。

マイナスの発言さえしなければ、他人を不快にしないものなのだろうか?

わたしはとても、そんなことは思えない。

悪意だとかネガティブな発言だとかは、人を傷つける可能性が高いのは事実だ。けれど怒りの代弁であったり、哀しみの親和であったり、寄り添ってもらえた心地になることだってある。

逆にポジティブな意見で傷つくことだってあるはずだ。

哀しくて寂しくてたまらない夜に、楽しそうにしている人たちを見て泣いた夜がある。みんなは無いのかな。どうしても楽しめない対象が称賛されている様を眺めながら、圧倒的な疎外感に打ち拉がれたことは?あなたの為と称された言動が、ざっくりと心に刺さった経験は?

それらに傷ついてしまうことは悪いことなのだろうか。

善意を喜べないのはいけないことなのだろうか。

楽しむ姿を見てほの暗い気持ちを抱くほうがおかしいのだろうか。

そんなことはないはずだ。

ポジティブな何かを見て傷ついてしまうことって、めずらしいことじゃない。悪いことじゃない。なにかを見てなにかを思うことのすべては、自由であって然るべきだ。

つまり、わたしも誰かを傷つける可能性は十二分にある。発信をするというのはそういうことだった。絶対にひとを傷つけない言動なんてない。プラスの発言だって、誰かのなにかの柔らかいところを刺してしまうことがあるってことを、忘れずにいたい。

その自覚をもちながら、それでもわたしは楽しい話をしていけたらと思っている。

楽しい話をしたいのは他人を慮っているのではなく、ただ、わたしがそんなわたしを見ていたい。それだけのことだ。けれど、それで一緒に楽しくなってくれるひとがいたら、嬉しい。

 

 

 

善悪って、単純なものじゃない。立場や視点が変われば、簡単にひっくり返ってしまう。

だから万人に共通した正解というのはなくて、いくら寄り添おうとしたところで、すれ違ってしまうことはままある。相互理解を深めようとしたって、何もかもを理解し合うというのは不可能なのだ。それが、冒頭に述べた「コミュニケーションの限界を知ること」だ。

どれだけ誠心誠意を尽くしたところで、言葉を交わし合ったところで、それでも相入れない部分は存在するのだということを。それは個人と個人であるからして仕方ないことなのだと。どうしようもないのだと。その哀しさを、切なさを、いくつも経験して。そういうものなのだろうと諦めを受け入れたとき、わたしたちは大人になるのだと思う。それが、大人になるということだと思う。

そうした諦念を抱えても尚、心を触れあわせたいと思うことを、きっとしあわせと呼ぶんだろうな。

 

 

 

ところで明日は推しの誕生日です。

いま高校生の彼は、どんな交友をして、どんな経験を経て、どんな大人になるんだろうな。ハッピーバースデー。いくつになったって、明るい笑顔でみんなを元気にしてくれるんだろうなって思ってるよ。

 

スーパーウルトラバスタイム

昔から風呂が好きだった。昔といっても子供の頃の記憶はあまり無いのだけれど、少なくとも高校以降ではハッキリと風呂に入るのが好きだなと自覚していたはずだ。

わたしの実家では毎日風呂を沸かせていたので、毎日湯船に浸かることができた。ただ家族の人数も多かったので、すこし浸かってゆっくりしたら、すぐに出ていた。今思えば、すごく贅沢だったなと思う。

 

 

一人暮らしをしていると、風呂には中々入れない。だいたいシャワーで済ませるようになった。

単純にガス代水道代が嵩むことと、水の消費への罪悪感と、あとは作業をしたい日が多いので必然的にカラスの行水になってしまうのが主な理由だ。

だから、サッと入ってすこし浸かるだけで出る、実家ならではの方法はもう叶わないのだなと思う。

 

それでもわたしは今の環境のほうが好きだ。というより、昔よりずっと風呂が好きになった。

誰にも気を遣わずに、好きな時間に好きなだけ入ることができて、好きなバス用品を使えて、のんびり鼻唄だって歌えてしまう。そんなバスタイムが好きで好きでたまらない。明確に、わたしの憩いの時間だと認識している。

たまには温泉だっていいけれど、それでも、わたしは家でひとりで堪能するこの時間のほうがうんと好きだって思う。

 

 

風呂に浸かる日のほうが少ないので、浴槽をていねいに洗って、なみなみとお湯を張る日は、必然的に時間の余裕がある日となる。今日はもうのんびり過ごそうと思う日は、まず風呂の支度をする。

お湯を張って、お気に入りの入浴剤を落としたら、水のかからない位置にキャンドルを灯す。風呂場のドアの外に音楽プレイヤーを置いて、あらかじめ曲をかけておく。これは聴き馴染んでいて脳裏に歌詞が浮かぶものがよく、ゆるやかな音楽だともっとよい(結果的にそういう曲は限られているのでついにバスタイム用のプレイリストを作った)

これで、お風呂に入る準備は万全となる。

とりあえずふつうに全身を洗ったら、あとはもうのんびりするだけの時間だ。

ドアを開けて、音楽を浴室に流す。ついでに電気も消してしまって、キャンドルのわずかな灯火を眺めながら、ゆったりと湯船に浸かる。だいたいスローテンポの曲がかかっているので、ちいさく寄り添うように歌っている。ゆるやかな音楽と、ゆらめく橙と、全身を纏うあたたかなお湯が、わたしのこころをどこまでも幸せにしてくれる。誰にも邪魔されず、誰からも傷つけられず、ただただ心地いいこの時間が途方もなく好きで、わたしは風呂に入るたび、これを永遠にしたいとさえ思う。風呂の時計は初期化されたままで、いつでも0:00を指している。

 

 

ひとつだけ困るのは、この時間にたくさんの考えごとをするのだけれど、それを書き留められる環境ではないことだ。おそらくやろうと思えばできるのだろうけれど、きっとその支度をすると、いまのようなバスタイムでは無くなってしまうに違いない。それは困るので、ああ書き留めたいなぁと思いながら、ただただわたしの中に思考を積み重ねていくのだ。

そういうわけで風呂から出たわたしはすっかりポエミーになり、こうして語りたい欲求を発散させることになるのです。今日はのんびりしようと思っていたから、それでいい。おやすみなさい。よい夢を。

褒めコミュニケーション

インターネットで交流していると、お褒めの言葉をいただくことがある。もうこれは本当に本当に嬉しくて、堪らない気持ちになって、麻薬みたいなもので、だからわたしはインターネットをやめられないし、わたしもそうして人に返していきたいと思う。オタクって優しい。そう思う。

だって現実世界ではそうそう褒められないもん。

 

……と言ってはみるものの、いや、ごめん、実は褒められる。

いろいろと嘆いていた翌日、なんだかんだ言って褒められながら、なんだかんだ褒められるよなぁとか思って冷静になった。

これはわたしが優秀であるとかではなくて、単純な話、褒めコミュニケーションをしているからだ。

自分で言うのもなんだけどわたしは結構人を褒める。長年社会人をしていながら世辞の類は言えないポンコツ人間なのだが、そのぶんいいなと思ったらそのまま伝えるようにしている。どんなひとにも長所はあるので、結果的に人を肯定するかたちにはなる。

(ちなみに短所も裏を返せば長所になるが、そういったことはしていない。わたしにとって嫌なものは嫌で、それを無理に受け入れ肯定すると負担がかかるんだって体感したから、避けている。それは嫌いだけどこれは好きだよみたいな接し方が、わたしには性に合っているようだった)

 

で、その上で褒めてほしいと主張している。

褒められたい褒められたいって、ばかみたいだけど正直に言うと、なんと!褒めてもらえるのだ! これってすごい。すごい発見だ(ばかの発言)

といっても、まーた言ってるよとか、自分で言うななんて言われるほうが多いけれど、5回に1回くらい?まあそのくらいは、はいはいえらいえらい、すごいね、だなんて言ってもらえる。投げやりな言葉でもなんだかんだ嬉しいもので、ヤッターってなる。ラブアンドピース。ここに世界平和が訪れる。

 

まあ、そういう褒めコミュニティの土台ができると、誘い受けしなくても褒められたりする。お弁当作ったりとかその程度でもだ。ヤッターってかんじだ。happiness!

 

そもそもわたしは興味ないことはあまり頑張れないので、仕事のやる気がとてもない。いや給料分は働くけど、それ以上する気もない。手ェ動かしてるんだからいいだろって、めちゃくちゃ眠そうな顔で出勤することのほうがほとんどで、いつも眠そうだと言われるし、起きて起きて!なんて茶化される始末だ(もう一度念のために補足するけれど、手は動かしてます、真面目なので)

だから言われるのだ。朝からぱっちり目が冴えてるときなんかに。

「今日は、ちゃんと起きててえらいね!」

……神クズ☆アイドルの仁淀かな?

(いそふらぼん肘樹先生の神クズ☆アイドルはめちゃくちゃ面白いサイコーの漫画なのでみなさん是非読んでください)

ただの錯覚

好きな人のエッセイは、すこしずつ読むことにしよう。そう閃めいたとき名案だと思った。むしろなぜ、その人がすこしずつ書き溜めていったものを一気に摂取しようだなんて思ったのだろう。こういうのは、少しずつ読んで、その内容ひとつひとつに想いを馳せ、思考を巡らせて過ごすべきなのだ。そう思った。

ほんとうにそう思ったのだけど、よくなかった。

 

なんというか、ハイカロリーエッセイだったのだ。丁寧に掬い取っていくには、あまりに心に刺さりすぎた。現にふたつの話だけ読んで買物に出たわたしは、その内容に向けて悶々と考え込むはめになり、結果的にぐったりしてしまった。

どうせぐったりするのなら、いっそ一度に全部読み切ってしまって、たくさんの感情が洪水のように流れていくさまを体感して、ひとつひとつに目もくれず、ただ巨大な嵐が過ぎ去ったなとボーっとするほうがよかった。

 

 

至極共感できる内容が書かれていると、なんだかそれだけで好きになってしまう。心をあずけてしまう。しかしその次のページでは、わたしの大事なものが他愛もないことであると書かれるのだ。剥き身であずけてしまった心は、当然傷ついてしまう。

それなのにまた次のページでは寄り添ってくる。こんなのひどいと思った。

傷ついては救われるのを繰り返すのなら、一気に摂取して、ああなんかすごく心がめちゃくちゃになってしまったなと思う方がいい。丁寧に読むほど感情の起伏が激しくなるというのなら、激しくならないようにしたい。

 

 

本を読むことは対話だと思う。

よく言われることだけれども、本当にそう思う。

とりわけエッセイなどの、等身大の言葉で、それも口語の文体で書かれたものだと、もうすっかり語り明かした心地になる。ただの一読者でしかないというのに。

しかし一方通行だと分かっていても、会話した気分になってしまうのだ。

ツイッターだってそうだ。いろんなひとがいろんなことについてツイートするさまを見るだけで、集団の中に紛れ込んでいる心地になる。しかもこのツールはリアルタイムで更新されるのだから思い込みも生まれやすい。

わたしがツイッターでたくさん呟いてしまうのも、たぶんそれのせいだと思う。誰にというわけでもなく聞いて欲しいのだ。反応がなくたって、ぽつりと呟くだけで誰かに聞いてもらった感覚を抱く。このブログだって、読者などいないにも等しいのに、それでもなぜか話を聞いてもらっているような気がしている。己との対話でしかないのに。それをアナログのノートに記してしまい込むか、電子ツールで書いて公開するか、それだけの差なのに。そうして自己と他の境界線が曖昧になっていく。

ただそれは錯覚でしかなく、好きな作家はわたしに向けて書いてなんかいないし、好きな歌手もわたしに向けて歌っちゃいない。フォロワーのツイートだって、わたしの話なんかしていない。そしてわたしも、べつに誰に向けて書いているわけじゃない。

ただの錯覚でしかないと自覚しておかなければ、トラブルだって起きる。

今日もインターネットのどこかでまた、境界線の曖昧なひとたちが何かを燃やしている。

 

人間です。

わたしというイキモノは大変影響を受けやすく、好きな作家のエッセイを読みながら「ああブログが書きたい」という衝動に駆られ、その衝動ままにこうしてキーボードを叩いている。

 

まあそんなことを言ってはみたものの、本当は前からやりたかった。ぼんやりと頭の中に構想があった。ただ、やる意味が無いなと思って毎回頓挫していただけで、今日、意味など無くたってやりたいんだという感情が動き、めでたくブログ開設である。なにがめでたいと言うんだ。

 

自己紹介をしますと、わたしはフィクションと人間の感情をこよなく好み、絵と文章で表現することが好きな、一介のオタクです。それからツイ廃でもある。

ツイッターがリリースされた頃、わたしは既に取り返しのつかない程のオタクであって、そんなわたしにツイッターというツールはびっくりするほど性に合った。好きなアカウントをフォローして、ぼんやりタイムラインを眺めて、自分もぽつぽつ投稿していく。それらは基本的に流れ去ってゆく。儚くて流動的なツールだった。なんというかそれが、妙に自分の性質と合致したらしく、気がつけば幾多のアクティブアカウントを使い分けるツイ廃になっていた。そして唯一の取り柄であった視力はガタ落ちした。無意識にツイッターを開くほどなのだから当然である。今いちばん恐ろしい単語はブルーライトかもしれない。

 

今持っているツイッターのアカウントは、絵を上げるアカウントが2つと、小説を上げるアカウントが1つ。サブ垢として、動物を愛でるアカウント、好きな小物や風景を愛でるアカウント、日常アカウント、それから雑多にぼやぼやボヤいていくアカウントがある(ほかにも非アクティブアカウントは存在するけど、ほぼ稼働していないのでノーカンにしておく)

この数は自分でもちょっとどうなのかな、と思わないでもないが、かなり居心地が良くなったので、別にいいかとツイ廃脱却を諦めた。誰に迷惑かけているわけでもなし。整理整頓が大好きな自分にとって、こういう活用の仕方は、なんだかすごくスッキリして心地よかった。

そう、わたしは整理整頓厨だった。

冒頭に「人間です」と自己紹介したのだけれど、これには理由があって、わりと最近までインターネット上で二次元ムーブをかましていたからだ。なるべく日常ツイートを避け、生活がわかるような写真をかたくなに上げず、二次元のキャラになりたいのだと言っていた。

その割には生活を匂わすツイートをしてしまって、我ながらなんでだろうと思っていた。

で、写真を上げるためのアカウントを新設して、やっと気付いた。べつに二次元キャラになりたいわけでは無かった。絵を上げるアカウントのメディア欄に、写真があるのがイヤなだけだったのだ。

写真を上げるアカウントに投稿したものを、メインのアカウントでリツイートして見てもらいたがっていたら、二次元になりたいという主張は綺麗さっぱり消え去って、逆に人間なのだと主張するようになった。正直この変化は我ながら面白かった。今でも面白いと思っている。

つまり、アカウントのメディア欄に上げるものを統一したいという欲求が根底にあって、それに無自覚であったため、別の主張によって理由付けしていたという話だ。

それに気づいてからはアカウント分けが加速して、今は整理整頓厨のツイッター廃人を名乗っている。住み心地がよすぎる。ただ私は飽き性のきらいもあるので、きっとこれも長くは続かないような気がするし、その予想を裏切ってずっと続けるかもしれない。長年続けられるのであれば、まあそういうことだったのだろうな、と未来のわたしが思うんだろうな。

 

そういうふうに、未来のわたしが今のわたしとの差異を楽しむためのツールが欲しい、というのがブログ開設の本来的な理由であって、だからこのブログでは自分の思うことや現状をつらつらつらつら語っていく、未来の自分のためのブログということになります。インターネットの海に放出しておいて、あまり他人が読むことを想定していない。

誰に読まれなくたって自分語りが好きだけど、ツイッターでは流れていってしまうから。だけども個人的な日記やノートをつけるにはどうにも続かなかったから。中間を取って、ブログ。いや〜めでたいな。なにがめでたいって、自分の頭がだろうよ。