boyaki

一介のオタクが感傷に浸る為のblog

わたしよわたし

ひさびさに、動悸息切れ目眩のするくらい、長湯をした。

風呂から出たわたしは頭がクラクラしていて、ドアを開けて浸かっていたにもかかわらず酸欠ですらあるようで、とりあえずソファに倒れ休んでいた。なんの為の風呂だったのだろう。リラックスする為ではなかったのだろうか。

 

気持ちを整理する為の長風呂だった。

ただただ思考の世界に耽るまでに、自分のこころに問いかけるまでに、それなりの時間が必要だったらしい。

めまぐるしく過ぎる刻に身を任せると、自分への問いかけがヘタになってしまうのだ。自分が何をしたいのか、何を望んでいるのか、そういう欲求を上手に引き出してあげられなくなる。その時々の要望を叶えてやったところで、それは二転三転するものであるから、いっそう感情が迷子になるのだ。もっとその先の、根本的なところのはなしを聞いてあげなければならない。

わたしよわたし、わたしは一体なにをお望みかい。

 

 

 

***

 

助長になってしまうけれど、順を追って書き出していこうと思う。

 

まず最初に憤りが湧いた。ここ1〜2ヶ月間で起きたさまざまなことが頭に浮かんではスライドしていった。あれもこれも、ああ、イヤだったのか、と、理解できた。理屈なんかじゃなくて、単純にイヤだったんだなと。

ここ最近で生活が大きく変わった。11月末に仕事を辞めた。それで落ち着くと思いきや、12月の後半まで先送りにしていた予定が詰まっていた。それでもってこの2ヶ月は時間の経過を早く感じていたものだ。もう明日にはクリスマス・イブなのだという現実が信じられない。

他人からしたら些細なことかもしれないけれど、わたしにとっては大きなことが、巨大な感情の揺れが、とても書き起こせないほどたくさんあったようだった。頭の中であれこれと列挙されていって、ようやく、気持ちのほうも忙しなかったのだなと気がついたのだ。

 

その後に襲ってくるのは自己嫌悪だった。かなしみだった。被害妄想だった。

わたしの中に湧きあがるイヤな気持ちを認識して、そんなこと思う自分への嫌悪と、そんな思考になってしまう性質へのかなしみと、きっとこんなんじゃ誰もがわたしを煩わしく思うはずだなんていう謎の確信だった。

 

それらを経て、自分が今なにをやりたいのか、なにをやりたくないのか。ようやく問いかけたときに出てきた答えが「ひとりになりたい」だった。

誰かとコンタクトのとれるツールを全部オフにして、すべてを遮断して、ひとりで、のんびり過ごしたい。と、そう思った。

 

そう思って、それらの生活をひとしきり夢想した。のんびり好きな本を読んで、好きなものを描いて、ぼーっと過ごして。けれど好きなものを読んだらツイートしたくなり、思うように絵が描けたら投稿したくなるわたしのことが、簡単に想像できてしまった。きっとそうに決まっていた。

 

穏やかに過ごしたいのだと思った。

それだけだった。

 

ひとりになりたいんじゃない。穏やかに過ごすために、イヤなことに触れたくなかったのだ。そんな単純なことに気づくまで随分長風呂をして、そうしてのぼせてしまったのだ。

哀しいかな、わたしはかなり、やさぐれていたらしかった。

 

 

 

***

 

ところで、己の欲求を知ることが案外難しいのと同じく、己の感情を認識することも案外に技術がいる。

自己と他の境界線があやふやになってしまうことというのは、めずらしい話ではない、と思っている。

わたしはわたしの感情を大切にしたいという強い意志を持っているけれど、それでも迷子になることは多々あって、そしてやっぱり、感情の置き場に迷っているひとたちのことも、多々目撃してしまう。

 

思うに、そこには欲求があるのだと思う。

 

好きな人が言っていることを、肯定したい欲求。

嫌いな人が言っていることを、否定したい欲求。

 

同調しなければならないという義務意識も、反発しなければならないという意固地も、あるわけではないのだ。

だって、盲信したくないと思っていてすら、好きな人が好きだと言っていることに共感できなければ悲しく、嫌いだと言っていることを嫌いに思えなくても悲しい。

まるごとを嫌悪したくなくても、嫌いな人の言ってることに共感してしまったら悔しくなるし、他愛のないことでさえ否定したくなる。

 

だから、単なる欲求なのだろうなと思った。

そうしたいと思ってしまうから、迷子になってしまうのだ。そして同調というのは心地がいい。ストレートに安心できることだと錯覚してしまう。ひとと感情を共有できるというのは幸せなことで、それはあたたかく包み込んでくれる湯船のようでもあって、ああここに身体を委ねてぼんやり過ごしていたいなと、そう、思ってしまうのだ。

 

けれどそれではのぼせてしまうことも、わたしは知っているから。

 

自分の感情を理解して、自分の指針をつくって、それらを大事にすることが、ひいては他人を大事にすることなのだと。それを愛というのだろうと。

 

 

 

 

愛に生きたいのだと、口癖のように言っている。

 

けれどそれはどういう意味なのだろうかと、具体的になにを示すのだろうかと、自分の台詞だというのに分からなくなることがある。きっとその時々で違ってしまうのかもしれない。

とりあえず、今のわたしのアンサーとしては、自分の感情を大事にすること。そうして他人の感情も尊重すること。それを愛に据えようと思う。

 

であれば迷っていたSNSの方針も決まるというものだ。

 

「大概loveの話をするよ」

そうプロフィールで豪語しているわたしさん、そうであってください。ハピであれ。